忍城 埼玉県行田市本丸
| (左)忍城模擬御三階 (右)本丸付近の空堀 |
| 築城年 |
1490(延徳2)年 |
| 歴代城主 |
成田氏、松平氏、酒井氏、松平氏、阿部氏、松平氏 |
| 別 名 |
亀城 |
| 形 式 |
平城 |
| 遺 構 | 模擬御三階櫓、土塁、水堀など |
| 解 説 | 1486(文明18)年、謀略による太田道灌殺害に端を発し、関東管領山内上杉氏と扇谷上杉氏は敵対関係に入った。山内家側の成田親泰は太田道灌と姻戚関係のあった忍大丞の館を襲い、一族を滅ぼし領内を統一、忍城を築城した。忍城は周りを沼に囲まれた要害で、1553(天文22)年、北条氏康も攻めきれなかった。1559(永禄2)年には越後の長尾景虎(後の上杉謙信)が関東に進出、城主成田長泰は城下を焼かれ、末子を人質に和睦した。同年、長尾景虎による小田原城包囲にも従軍した。しかし、この頃景虎は上杉憲政から関東管領を譲られ、“上杉政虎”と名乗ったが、その式の途中、長泰は政虎から辱めを受け、離反。以降は北条氏に従属。長泰は重用され、成田氏は行田を中心に羽生から熊谷までを支配するようになる。 1590(天正18年)、豊臣秀吉の小田原攻めでは、配下の石田三成・長束正家らが忍城を攻撃。城主の成田氏長は小田原城へ参陣しており留守で、城代の成田泰秀率いる約2600の兵が城を守った。周囲の沼に足を取られ、攻めあぐねた石田軍は堤を作り(石田堤と呼ばれる)、水攻めを行った。しかし、豪雨により堤は決壊(堤を作る際、地元の者を雇ったので、手抜き工事を行ったという説がある)、逆に石田軍が大きな損害を被った。結局、本拠地小田原城が降伏しても忍城は落ちず、その6日後に開城している。成田氏長は蒲生氏郷に預けられた後、下野烏山城3万7千石を与えられた。 徳川家康の関東転封後は家康の四男松平忠康の入封をはじめ、譜代大名が城主を歴任した。 |
| アクセス | 東武秩父鉄道「行田市駅」〜徒歩15分くらい JR吹上駅〜バス20分 |
| 近くの城 |
JR線沿いなら深谷城、東武線なら松山城 |
| 忍城にある行田市郷土博物館入り口 |
時の鐘:移築現存だそうです。 |
模擬城門(東門) |
| 進修館表門: かつて藩校の門だったと言われています。 |
本丸土塁: 僅かながら残っていました。 |
門: 何も説明がされていないという事は模擬でしょう。 |
| 水城公園: 櫓台跡のような・・・ |
水城公園: 土塁のようです。公園地化で改変されたのかもしれませんが。 |
水城公園: かつては忍城の天然の水堀、沼の跡です。 |
| 感 想 【おすすめ度】 石田堤とセットならB忍城単品ではC |
余りに晴れていたので、ついつい出かけてしまいました。忍城に行く時は “豪雨の水攻め”にちなんで、雨の日に行こうという自分なりのこだわり(←相変わらず変な思い込みが激しい)があったのですが、雲ひとつない天気に負けました(笑)。で、結果、晴れた日に行って大正解!何故か?それは近いと思われた石田堤が忍城からも駅からも滅茶苦茶遠いからデス。ただ、この石田堤、忍城へ行くなら絶対に立ち寄るべきです!新幹線の高架下にメインの解説板があるのですが、電車が通ると当時の状況を石田三成様の声も交えて説明してくれるのです。ここでは石田三成様の水攻めの失敗を面白く(真面目なのかもしれんが、自分にはどうもコケ下ろしているようにしか受け取れん・・・)再現してくれています。やはり行田市民的には「成田氏=善、石田さん=悪」の構図ですかね。こういう地元意識って大好きです。我がふるさとも別所長治公は完全無欠のヒーローですから(笑)。 さて、肝心の忍城ですが、以外にも模擬御三階の裏手に土塁が残っていました(復元?現存?)。遺構の大部分は市街地化されてしまっていますが、それでも水城公園の周囲にも土塁(櫓台?)らしきものもあるし、期待以上でした。白亜の御三階櫓も良かったですよ!忍城⇒水城公園⇒石田堤⇒吹上駅の順に回ったのですが、やはりこれが最も効率的かと思います。忍城から水城公園はスグですが、石田堤はマイカーかタクシーが無難でしょう。道も迷いそうだし。 |